生き様活力

仕事仲間に、むちゃくちゃカッコイイ奴がいる。カッコイイと言っても、容姿の話ではなく、彼の生き様だ。

 

年齢はもうすぐ40歳。
年齢を微塵も感じさせない程に、パワフルな奴だ。行動的で、グイグイと道を切り拓いていく様に、すごいなあ、カッコイイなあとは元々思っていた。
しかし今日は、彼が"大勢の人を幸せにする様"を一部始終目の当たりにしてしまった。
ついては、誠に勝手ながら本日をもって、「尊敬する人」へと格上げさせていただいた。

 

人生24年目にして、3人目の「尊敬する人」が出来た。下手したら恋人ができるより嬉しいかもしれない。


あまりに心揺さぶられたもので、大真面目に

「あなたの生き様が活力だ」

と本人に伝えてしまった。脳みそから口まで、滑り台を滑るようにスルリと言葉が出た。

 

生き様が活力。


この話を友人にしたところ、「私はあなたの生き方だってそこそこ尊敬しているし、活力も貰っているよ。」と言ってくれた。しかしこんな生き様活力モンスターを見た直後。素直に「ありがとう」なんて口が裂けても言えない。私などただのダンゴムシである。幼児にだって捕まえられる。

 

思い返せば今日は、本件を祝福するかの如く良い事ばかりだった。好きな人は二度も夢に出てくるし、Twitterを眺めていたら友人と同じタイミングで同じ名曲を聴いていて嬉しくなるし、仕事は順調と言えるところまでスケジュールを取り戻したし。極め付け、他人の生き様を見て「頑張ろう」なんて思えてしまったよ。

 

私が人を「尊敬する人」と格付けする時、自分へ課しているルールが一つだけある。それは、"その人の尊敬する部分を追いかける"ことだ。
詰まるところ、私の人生はこれから少しずつ彼を追いかける人生となる。「生き様活力モンスター」を目指す人生として、柔らかなレールが敷かれたのだ。その事実が、今日は眠れないほどに嬉しい私である。

38度5分

ああ、とにかく今の私は体調が悪い。どん底に居る。今日は2回だけベッドから出たのみで、暇を持て余した脳みそが延々と"幸せ"について考えたりしてしまう。

 

東京へ帰ってきた途端やれミーティングに参加しろだの書類がどうだのコンペだの企画だの、ぶち殺すぞといった気持ちになった。仕事は基本的に楽しいと思ってやってきたので、最近の目に余る忙しさにストレスが溜まっている様だ。

お金をたくさん貰えることと、のんびり働くことは、どちらが幸せなのだろうか。お金はあるに越したことはないが、人生においてあまり忙しくしてこなかった私はただただ戸惑っている。分かり易く体調も崩す。

 

ショッピングモールが七夕チックな装いだったもので、短冊に「親孝行したい」と書いて吊るした。後になって考えたが、別にそんなに親孝行したいと思っていないし、それより圧倒的に自分の人生や自分の子孫を幸せにすることにお金を使いたい。親とは仲が良いほうだと思うので、やっぱり私は冷たいのかも知れない。

 

図書館へ行きたい、好きなだけ本を読みたい、映画を見たい、ライブに行きたい。思えば引っ越した先の街すら開拓出来ていない。

 

最近、1ヶ月ぶりに好きな人と話をした。ただのそれだけなのに、その事実は私の頬を緩ませる。


東京へ戻ったら連絡してよ、と言ってくれたので、仕事をなだめた後に食事へ誘うシミュレーションをして、少しだけどん底から浮くことが出来た私であった。

そんなに繊細じゃない

「こないだのアレ、ああ言っちゃったけど、もしあなたが気にしてたら…と思って一週間モヤモヤしてたの。ごめんなさいね。」


割と親しくしているクライアントとの打ち合わせで、こんなことを言われた。
間髪入れず、「大丈夫です!全然大丈夫です!そんなに繊細じゃないので!笑」と私は答えた。少し笑いが起きて、そのまま打ち合わせは進む。


何でもない会話だった。実際一ミリも気にしていなかったし、そもそもそんなこと言われたのも忘れていた。
問題はそこじゃなくて、口からするりと「そんなに繊細じゃない」なんて言葉が出たことである。驚いた。私、いつから繊細でなくなったのだ。その後半日ほど、「そんなに繊細じゃない」は私の心中で反復横跳びを続けた。

 

プッチモニの歌詞ではないが、"繊細"を辞書で引いてみる。


繊細:感情などがこまやかなこと。また、そのさま。デリケート。


私の最後の"繊細"はいつだろうか。記憶フォルダをこじ開ける。
ああ、きっとこれだ。確か中学三年の時、めちゃめちゃ怖い体育教師にソロで呼び出されたことがあった。狭い体育教官室で促され着席し、体育教師が口を開いた瞬間涙腺ダムが決壊した。怒られるかどうかも分からないのに。むしろ褒められるかも知れないのに。なんかもう状況だけで泣いたあの日。あれがきっと、私の最後の"繊細"だ。

 

繊細でなくなったのか?
確かに、自分に向けられる他人の言動に対し、「昔なら怒ってたな」だとか「昔なら落ち込んでたな」なんて思うことが増えた。


たくましくなったし、きっと器も大きくなった。
それでも、繊細さを完全に手放すのは怖い。推測でしかないが、感性が欠落してしまう気がするからだ。感情ではなく感性。そうなると私は職を失い、そのままごろごろと転げ落ちるのだろう。そういう未来が待っている、気がする。

 

自分でこんな発言をしたからこそ、己の心に気配り目配りしてあげよう、と強く感じた一日だった。

0:50のおつまみ

Twitterにおいて、「検索ワードの保存機能」をよく使う。 

所謂"エゴサーチ"の為に使う人が大多数だと思うが、私も例外無く、お仕事で関わっている物々のエゴサワードがいくつか保存されており、いつでもワンタップで検索が出来る様になっている。

に、加えて。一つだけ毛色の違う単語を登録している。

それが、「終電逃した」だ。

 

これを大体0:50頃にチェックするのがいい。0:50はピーク中のピークで、雪崩の如く新着の「終電逃した」ツイートが更新されていく。


別に終電を逃した民を遥か天上にある自宅から嘲笑っている訳ではない。終電を逃した一人一人、そこには様々なショートストーリーが存在するもので、これを見るのがとても好きなのだ。

あー、ふふ、みんな楽しかったのね…君はギリギリまでお仕事だったのか、頭が上がりません、お疲れ様です…。

 

私という人間は日課の如く酒を飲むわけだが、家で飲んでいる時はセブンのチータラと同頻度で「終電逃した」を頂く。同じくらいに美味い。

皆、大抵が平凡な理由で終電を逃している。以前にも書いたが私は他人の生活が好きなもので、私にとっての「終電逃した」は、手軽にその人の一日の終わりを覗ける最高のワードなのだ。

稀にドラマチックな理由付きの「終電逃した」も存在する。それを見かけた際は、その先の展開を予想したりなんかして、ほんの少しだけお得な気分になる。チータラと、ちょっと贅沢してタン塩も買った日の様に。

私の中の童貞

恋をする人間ほど滑稽なものはない。特に、恋をする私はそのほかに比べて飛び抜けて滑稽だ。

 

どれだけ場数をこなしても、好きな人の前では挙動不審になってしまうし、Twitterを穴が空くほど眺めてしまうし、可愛く言えば、ドキドキしてしまう。

 

私はこの現象を、"私の中の童貞"と呼んでいる。

 

 

今日は好きな人の住む隣駅で打ち合わせがあったもので、「近くにいることを口実に彼をランチに誘ってみよう!」と思い立った。思い立ったと言うか、企てたというか。そして私はLINEで連絡を取ろうとする。とにかく自然になるようにと、一言一句消しては書き、消しては書きを繰り返す。そうやって作った渾身の一文を送るわけだが、送ったら送ったで怖くて返信が見られない。

 

なんだこれ。誰だよ私。童貞かよ。

 

昨晩は女友達どもと「自分の性欲がどれくらいなのか数値化してみよう」という話でむせるほど笑い、あげくの果てに性欲がないという友人に説教かましたりなんかしたのに。これではまるで知識ばかり豊富で女の体を知ったふりする童貞のようではないか。

 


なぜ処女でなく童貞なのかというところだが、上記の通りたくましく、男性的だからだ。ある年齢から性に寛容になり、そのギャップが生まれた時に童貞が生じるのだと思う。
それで言うと、逆に男性のそれは処女と呼べるのではないだろうか。処女ならば可愛らしいので、88歳くらいまで守り抜いて欲しいところだ。


私の周りで言えば、ハタチごろから女友達の間で下ネタを話せる雰囲気が出来上がった。その頃からのお付き合いになるので、もう4年、心の中に童貞を飼っていることになる。

 


この先何年のお付き合いになるかは分からないが、自分でもギャップに呆れる反面、この童貞、どこか愛くるしいのだ。

 

これからも、彼のことを客観的に観察しつつ、うまいこと共存していきたいものである。

そして私が脱童貞した暁には、またここに記事を書かせてくれないか。

音痴とは友達になれない

人生で三度だけ、マジの音痴に出会ったことがある。

 

 

一人目は、高校一年生の時に同じクラスだったKちゃん。
Kちゃんは、ギャルっぽい見た目に反してとても穏やかで良い子だった。誰かが落ち込んでいると真っ先に気付いてそっと手を差し伸べてあげるような子。
Kちゃんの歌を初めて聞いたのは、入学してすぐのクラス親睦会だった。自分が何を歌ったかは1ミリも覚えていないのに、Kちゃんが歌った曲、歌う姿、場の空気、などはいつまで経っても私の海馬101号室に存在している。
忘れもしない、Folder5の「Believe」。そう、ワンピースのあの曲。Kちゃんはあの曲を、見事に外しまくって歌い上げたのだ。
それ以来私の中でKちゃんは、上辺度83%の友達となった。83%を具体的に解説すると、Instagramは友達だけど街で見かけても声はかけない、といったところだろうか。

 

 

二人目は、前に勤めていた会社の先輩。
ちょっと強面でいつも無表情だが、私が入社したての頃にとても良くしてくれて、色んなことを教えてくれた。
この人の定番はワンオク。音痴×ワンオク=世界の終わりである。普段は無表情なのにマイクを握っている時だけ半ニヤな先輩。酔った時が最悪で、かなりのハイペースで曲を入れて来る。申し訳ないが私は個人的に、「この人が曲を入れだしたら帰り時」という目安を設けていた。そして驚くことに、音大出身だった。

 

 

三人目は、母の店を手伝っていた際にふらりとやって来たおじさん。
小太りで早口で第一印象からよろしくなかったのだが、歌声を聴き、第八印象くらいまでは確実によろしくないことが予想できた。私はもうただただ、「頼むから常連にならないでくれ」と思いながら、カウンターの下で脳内地団駄を踏んだ。
コブクロの「桜」。ごちそうさまです。

 




最近新しくクライアントになった先の社長がこんな話をしていた。

「僕はお酒の場でのコミュニケーション信者なので、採用条件に"お酒を飲める方、飲めなくても飲み会の空気を楽しめる方"と記載している。一緒に楽しくお酒を飲める人の方が絶対的に仕事の場でも声をかけやすいし、特に新人はそういう環境でのびのび育って欲しい。」

ほお〜、なるほどね。それで言うと私はカラオケでのコミュニケーション信者といったところだろうか。「カラオケによって生まれるコミュニケーションが好き」な私からしたら、本人に全くの非はなくとも、場の空気をマイナスへ寄せてしまう人はどうもダメなのだ。

あとはもう単純明快に、「親しい友達とはカラオケに行きたい」のである。一緒に酒を飲みながら歌って、わあわあ言ってゲラゲラしたい、のである。そうなった場合、最低限歌えるレベルでないと、結局そこに「気を使う」という行為が発生してしまう。

 

 



特にそれ以上言いたいことは無いのだが、そんな感じでとりあえず24年間、音痴な人とは友達になれずに居る私である。

NO LIFE NO LIFE 〜生活を貢いでくれ〜

祝いの席でぐでんぐでんに酔った頭ついでに、ひとつ身を削ろうと思う。

 

 

 

私の性癖のひとつに、「他人の生活」がある。性癖:他人の生活。

 

何が言いたいかというと、つまりは他人の生活を覗き見るのが好きなのだ。

覗き見ると言っても言葉通りのそれではなくて、例えばほら、それこそブログ。
考えをあれこれ書いてあるものより、なんの変哲も無い、起きてから寝るまでのことを書いているような、ザ・日記が好きなのである。どこの誰かも知らないあんたの等身大の生活が好きだ。難しいことを書かないでくれ。Instagramの「#暮らし」みたいに幸せな生活を送ってるぶらないでくれ。

 


先月書いた「ほしい物リストってめっちゃエロくないか?」という記事でも顕著に出ているが、これは確実に一種の性癖なのだと確信している。もしも私が考えてること読める系の能力者になったら、「帰りにスーパー寄ってトイレットペーパー買おう」みたいな思考を読んでしまった時点でアドレナリンが上がりすぎて失神すると思う。

 


あとスケジュール帳。手書きのスケジュール帳。あれに至っては最早見てしまったが最後、三途リバーでRIDE ON WAVEすると思う。逆に見られない。目の前に出さないでくれ。
昨年何度かデートした弁護士の男性が頻繁に私の前で分厚いスケジュール帳を出すもので、あれは本当に困ったよ。

 

 

 


なんなんですかね。なんでこんな興奮するんですかね。

 

24歳になりました。ハイ。